もうすでに
AERAの表題記事については多くの方々がコメントをしており、ブログ等でも取り上げられていますので、事件の内容については多くを語りません。問題を理解する上では
「おふぃす・ふじかけ」の”アエラ最新号「牧師の性犯罪」記事を読んで”などの考察が大いに参考になりました。
さて、まず何よりもこの記事は知人の問題でもあったので非常にショックであったということ。知人といっても、個人的な関係ではなく仕事の上で何度かご一緒させていただいたという程度なのですが、その働きの内容や使命感には大きく影響を受けた面もあります。彼の働きが突然閉鎖したことで大きな戸惑いがありましたが、詳しいことは何も説明されず、その時は消化不良のままでしたが、こうして記事になったものを読むと、暗澹たる思いになりますし、被害を受けついには自死に追い込まれた女性の傷の大きさ悲しみ怒りを覚えると、本当に残念でなりません。彼の働きに対しては私も少なからず献金や祈りを通して支援してきたので、あれは一体何だったのか、という思いと、それでも病床の子供たちにはいくらか役だったのだろうか、という思いとが入り交じった何とも言えない感情が消化されずに胃の中に留まっているような感覚を覚えています。
そうした個人的な感情はこれくらいにして、この記事を読んだ感想を述べたいと思います。
第一は、教会や教職者の自己意識についての幻想の問題です。記事の中でも触れられていましたが、日本においてキリスト教が最初に受け入れられたのは氏族階級や知識層でした。近代化や社会の向上(教育、医療、廃娼運動など)に大いに寄与し、道徳的にも高い理想を持ち、実践してきたという自負があると思います。それが「敷居の高さ」にもつながる訳ですが、クリスチャンはそれを「清さ」、また「世との違い」としてむしろ肯定してきたと思います。
しかし、新約聖書が描く教会の現実の姿はもっと人間くさい様々な問題に溢れています。性的な罪をことさら強調する訳ではなく、人が陥りやすいさまざまな罪を取り上げ、戒め、その誘惑を回避する知恵や、罪を犯した場合の個人的・教会的対処までが取り上げられ、原則が示されています。それは、人々が幻想する以上に教職者も教会も罪を犯し得るものであるという現実を指し示しているといううことです。
第二は、「軽い」罪と「重い」罪を無意識に区別してはいなかったか、ということです。教会の中で、非難中傷、陰口、偽りやごまかし、ねたみといった「よくある」「ささいな」罪は日常的に認識されていても、殺人や窃盗、性犯罪といった「重い」「犯罪性の高い」罪はあるはずがない、という根拠のない区別です。
もちろん、クリスチャンは自らのうちに聖書の指針と聖霊の神の導きや守りがあることを信じています。それは聖書が教える真理の一面です。他方では、パウロのような指導者でさえも、自分自身の願いを無視するかのように居座り続ける罪の根深さを見つめ、嘆き、神の恵みを訴えています。彼自身は犯罪性のあるような罪を犯したりはしなかったのでしょうが、それでも自らのうちにある罪の根深さゆえに自分を「罪人のかしら」と表現しています。
そもそも「よくある」「ささいな」罪と、殺人や姦淫といった犯罪性のある罪と何が違うのでしょう。イエス・キリストは両者は本質的には変わらないと教えなかったでしょうか。
むしろ、犯罪性の高い罪を犯さずに済んでいた理由が、真に霊的、人格的に成熟した結果というのではなく、社会的地位やプライド、聖くあるという自己満足などであったとしたら、密室や孤立の中で、あるいは膨張した使命感の中で、容易に罪深い行いへと転落しうるのかもしれません。
第三は、指導者育成のプロセスの中で、誘惑との戦いについて真剣に教えてこられていなかったのではないか、という反省です。
日本中の神学教育機関でどのような教育が行われているのかを知っているわけではないのですが、私自身は教会生活や神学校での教育を通して、誘惑との戦いについてあまり具体的には教えてもらったという経験がありません。もちろん、一般論として「誘惑を避けなさい」とか「誘惑が起きそうな場に近づくな」「祈りなさい」というような事は一通り教えられました。しかし、思春期に経験する性的な誘惑と、中年になってからの誘惑とでは誘惑の中身も意味合いも大きく異なると思います。金銭的な誘惑にしても、本当に金がなくて困っている時の誘惑と、力の誘惑と結びついたものとではまるで性質が異なります。ましてや教職者のような地位に就く時に起こる支配欲や権力欲といったことについて正面から教えられたり訓練されたりする機会は全くと言って良いほどありませんでした。しかし、聖書を読めば確かに教えられているのです。問題は、そのような教育が教会や神学校という現場ではあまり取り上げられていないことにあります。
今回の記事で取り上げられた教団ではセクハラ問題への取り組みなどが始まったようですが、そもそも教会や指導者育成のプロセスの中で当然取り上げられなければならない霊的・人格的成熟が、表面的で実生活にそぐわなくなり、おろそかになっている事の方がよほど大きな問題なのではないかと思います。
第4は、問題を起こした牧師たちが所属する教団の対応です。教団組織の場合、組織的に教会で対処しきれない問題を上部団体が対処するということができるのでしょうが、私が属する団体は「同盟」であって、地域教会を統括する上部団体というのがありません。そのため私が問題を起こすと、同盟に所属する他の教会の牧師が、同労者として関わりを持ち、叱責したり導くことはあっても、同盟の役員会や任職委員会が(両方とも現存しますが)懲罰を加えることはおろか、私の責任を問うたり、辞任を促すことも原理的にはないのです。あくまでも地域教会の自立性が尊重されるので、私をどうするかは私の教会に委ねられるのです。
これは地域教会の主体性という面では良い考え方だとは思いますが、反面、同じ同盟に属する教会で問題が起こっても、そちらから援助の要請がないかぎり積極的には動けないとか、同盟としての立場を表明することもできないという面があります。特に後者は社会的にはなかなか理解されないことなのかもしれません。この辺は今後考えていく必要のあるテーマだとは思います。
まあ、他にもいろいろと考えさせられることはあるのですが、こんなところを、記事を読んでのとりあえずの感想、独り言あるいは考えをメモとして記録しておきたいと思います。